迟却

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[翻译][北原白秋]《吠月》序/萩原朔太郎「月に吠える」序

原本:月に吠える : 詩集|萩原朔太郎|感情詩社

朔太郎出版的处女诗集「月に吠える」(吠月)由北原白秋作序,室生犀星作跋。今年正好是出版一百周年。

翻到一半才发现有过翻译了→   ,献上膝盖!不过有些地方的理解不太一样,加上了一些自注,不自量力地翻完了。   


  萩原君。

  无论怎么说,我是爱着你,以及室生君的。那是一种坦率而温柔的爱。是无论何时都会永远持续,无论何时都会保存着同样的温度的爱。三人的生命相通,即使天禀有所相异,自然而然地会在某处相汇。我想到你们的时候,总会感到从同样的泉底不停涌出的新水的清澈。我以无垠的亲近与惊异的目光来体会你们的喜与忧。通过这样的以心传心,我感到同样的哀怜之情在三人之间渐渐变得深刻。那是在各自的心底里直接触到互相的手的唯一的宝物。

  我十分了解你,以及室生君。我也很了解你们的诗,与这些诗的诞生。从『朱栾』熟识的你们向我打开了你们的心扉。在好的意味上说,之后我们心的交流总是那么新鲜。大概今后也会是如此。那是三只旋停[1]的陀螺相触一刹那的静谧。在那里,激荡着无限的颤栗。当然,三个生命确实不得不保有三个席位。那之后各自开朗。微妙的接吻随后到来。以同样的单纯与诚实,也以足以听清彼此的悸动的澄澈。幸而你们的生命也正玲珑剔透。

  没有人能否认,你和室生君一样,是天生的诗人。我坚信着。你也是异常的神经与感情的所有者。作个比方,就是涵着忧郁香水的剃刀。而且那种预感常常向着理应到来的悲剧颤抖。但是,它与其说是为了凶恶本身而使用的,不如说是应对凶恶的自卫,可以称得上是指向自己的忏悔之刃的一种。若说何故,是缘因恐怖的一刹那,你持有的感情确实尖锐得可以尽数自己一根根的肋骨。

  不过这剃刀也确实多多少少附着你好奇的趣味性。偶尔稳稳地用它剃掉你薄薄的胡须。

  清纯的尖锐,这是读过你的诗的人都会认可的特色。但正如室生君所说,它与坡[2]及波德莱尔[3]的尖锐不同。你是寂寞的,你是坦率的、清楚的、透明的,更加纤细地噗通乱跳的。丝毫没有他们的绝望的黑暗与颓废的幻觉的魔睡[4]。宛如冰凉的水银镜反射的剃刀的闪光。那面镜中映出的是真实,还映着玻璃制的高雅的市街与青空。此后,骇人的杀人事件赫然上映[5],出色的俏皮侦探悄然奔走。

  你的禀性又恰似立于地面的一根直竹[6]。那纤细的枝干生着新鲜的青绿,那奢华的叶发出细微的颤动。仅此一根,直指苍穹。而此竹的一切感情都沉潜于根中。若说在根系之中细小纤毛分歧处的,几乎或有或无的毛尖的图案到达了感伤主义的极致,攀在那毛尖哭泣的男人,正是染病的朔太郎。这一点你也是认同的。

  “诗不是神秘,不是象征,也不是其他任何东西。诗只是生病的灵魂的所有者与孤独者的寂寥的慰藉。”你这么说。诚然,你是茕茕孑立的竹,在诧异于水面映出的自己的影子的神秘与象征之前,切实地痛感真正的竹与真正的自己。鲜纯旋律的唏嘘由此处而来。进而,其叶与根的尖端也放出光亮。

  你的灵魂有着我所知之极的苍白的容颜。看起来几乎是久病缠身。然而,那是用一颗沙粒摩擦珠母贝肉的苦痛。反复的刺痛将其磨成了珍珠。那是真正的肉身,从肉身滴出的粘液诞生自真正的苦涩,是你的诗的证明。

  由外看来,你极其消瘦与尖锐。四肢往往以锐角动弹,正如竹的感觉。而突如其来的电流体的感情从头顶激荡到脚趾之时,你一蹦一蹦地跳动。没有激荡的时候,泪水总是从你的眼中零落,像是想将什么拥入怀中的风一样。

  你是有着洁癖而任性的公子哥儿(这一点很像我),极易感伤,总是毫不掩饰地震颤着苍白的神经。那是在电流袭来前的灯泡的玻璃中颤抖不止的竹线。

  你的电流体一般的感情不住地将所有的液体凝成固体。竹叶上的水汽凝结成一滴露珠,腐酒的蒸汽在冰冷的蒸馏器[7]的玻璃上形成透明酒精水滴,其自身的洗练绝非轻率之为。你的感伤主义的信条,正如将木炭变成金刚石那样的恒久漫长的时间在一瞬间收缩的凝念那般强大。“摩诃不思议[8]”,这一真言的秘密唯有诗人知晓。

  对月而吠,正是你悲伤的心。冬天来临,我那儿的白色小狗也终于吠出声来。白日,空中一羽雀啼,它便吠。黑夜,霜烁烁而降,它嗅声而吠。仰慕天空,匍匐大地的生物是悲伤的。

  嘌嘌吠鸣,有什么在嘌嘌吠鸣。侧耳倾听,便能让身体发麻的寂寞苦闷之声,今夜亦响彻对面竹林而传来。降下的是新鲜竹叶上如雪的结晶,思及你,苍白月天便始终悬挂其上。

  萩原君。

  无论怎么说,我是爱着你,以及室生君的。我比你年长两岁,室生君又比你年少两岁。我为比我更为年轻、更为新生的两个相似的灵魂而祝福,为甚深的肉亲交欢而沉醉。

  思及你与室生君对艺术的热爱,不禁泪流。你的喜悦,就是室生君的喜悦。也就是我的喜悦。

  借此机会,再度予你赞叹之辞。

   大正六年一月十日

         于葛饰紫烟草舍
            北原白秋

自注:

[1] 旋停,原文为廻り澄む,廻る,旋转;澄む,原地高速旋转的陀螺一眼望去仿佛静止的样子。

[2] 坡,即埃德加·爱伦·坡(Edgar Allan Poe,1809-1849),19世纪美国诗人、小说家和文学评论家,美国浪漫主义思潮时期的重要成员。其恐怖小说大都揭示人类意识及潜意识中的阴暗面。

[3] 波德莱尔,即夏尔·皮埃尔·波德莱尔(Charles Pierre Baudelaire,1821-1867),法国19世纪最著名的现代派诗人,象征派诗歌先驱,代表作有《恶之花》。其诗歌展现了城市的丑恶于人性的阴暗面,“丑恶经过艺术的表现化而为美,带有韵律和节奏的痛苦是精神充满了一种平静的快乐”。

[4] 魔睡,仿佛倾注了魔力的沉睡。

[5] 意指《吠月》中的《殺人事件》。

[6] 《吠月》中有数首描写竹的诗:《竹とその哀傷》《地面の底の病氣の顔》《竹》(其一)《竹》(其二)

[7] 蒸馏器,原文为ランビキ,也写作兜釜式焼酎蒸留器,是日本江户时代用来蒸馏药油、酒类等的蒸馏用具。原型为9世纪伊斯兰帝国宫廷学者发明的アランビック(英: Alembic)蒸馏器,因此简称为ランビキ(ranbiki)。

[8]摩诃不思议:意为非常不可思议。“摩诃”为佛学用语,是梵文音译词,本意为“大”,多译为“伟大”、“非常”等。

  

 萩原君。

 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。それは何と云つても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永続するもので、いつでも同じ温かさを保つてゆかれる愛だ。此の三人の生命を通じ、縦(よ)しそこにそれぞれ天稟の相違はあつても、何と云つてもおのづからひとつ流の交感がある。私は君達を思ふ時、いつでも同じ泉の底から更に新らしく湧き出してくる水の清(すず)しさを感ずる。限りなき親しさと驚きの眼を以て私は君達のよろこびとかなしみとを理会する。さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互の胸の奥底に直接に互の手を触れ得るたつた一つの尊いものである。

 私は君をよく知つてゐる。さうして室生君を。さうして君達の詩とその詩の生ひたちとをよく知つてゐる。『朱欒』のむかしから親しく君達は私に君達の心を開いて呉れた。いい意味に於て其後もわれわれの心の交流は常住新鮮であつた。恐らく今後に於ても。それは廻り澄む三つの独楽が今や将に相触れむとする刹那の静謐である。そこには限りの知られぬをののきがある。無論三つの生命は確実に三つの据りを保つてゐなければならぬ。然るのちにそれぞれ澄みきるのである。微妙な接吻がそののちに来(く)る。同じ単純と誠実とを以て。而も互の動悸を聴きわけるほどの澄徹さを以て。幸に君達の生命も玲瓏乎としてゐる。

 室生君と同じく君も亦生れた詩人の一人である事は誰も否むわけにはゆくまい。私は信ずる。さうして君の異常な神経と感情の所有者である事も。譬へばそれは憂鬱な香水に深く涵した剃刀である。而もその予覚は常に来る可き悲劇に向て顫へてゐる。然しそれは恐らく凶悪自身の為に使用されると云ふよりも、凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃となる種類のものである。何故ならば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、正(まさ)しく君の肋骨の一本一本をも数へ得るほどの鋭さを持つてゐるからだ。
 然しこの剃刀は幾分君の好奇な趣味性に匂づけられてゐる事もほんとうである。時には安らかにそれで以て君は君の薄い髯を当(あた)る。

 清純な凄さ、それは君の詩を読むものの誰しも認め得る特色であらう。然しそれは室生君の云ふ通り、ポオやボオドレエルの凄さとは違ふ。君は寂しい、君は正直で、清楚で、透明で、もつと細かにぴちぴち動く。少くとも彼等の絶望的な暗さや頽廃した幻覚の魔睡は無い。宛然凉しい水銀の鏡に映る剃刀の閃めきである。その鏡に映るものは真実である。そして其処には玻璃製の上品な市街や青空やが映る。さうして恐る可き殺人事件が突如として映つたり、素敵に気の利いた探偵が走つたりする。

 君の気稟は又譬へば地面に直角に立つ一本の竹である。その細い幹は鮮かな青緑で、その葉は華奢(きやしや)でこまかに動く。たつた一本の竹、竹は天を直観する。而も此竹の感情は凡てその根に沈潜して行くのである。根の根の細(こま)かな繊毛のその岐れの殆ど有るか無きかの毛の尖(さき)のイルミネエション、それがセンチメンタリズムの極致とすれば、その毛の尖端にかじりついて泣く男、それは病気の朔太郎である。それは君も認めてゐる。

「詩は神秘でも象徴でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。」と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徴として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷(すすりなき)はそこから来(く)る。さうしてその葉その根の尖(さき)まで光り出す。

 君の霊魂は私の知つてゐる限りまさしく蒼い顔をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは真珠貝の生身(なまみ)が一顆小砂に擦(す)られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は真珠になる。それがほんとうの生身(なまみ)であり、生身から滴(したた)らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が証明してゐる。

 外面的に見た君も極めて痩せて尖つてゐる。さうしてその四肢(てあし)が常に鋭角に動く、まさしく竹の感覚である。而も突如として電流体の感情が頭から足の爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から涙がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。
 潔癖で我儘なお坊つちやんで(この点は私とよく似てゐる)その癖寂しがりの、いつも白い神経を露はに顫へさしてゐる人だ。それは電流の来ぬ前の電球の硝子の中の顫へてやまぬ竹の線である。

 君の電流体の感情はあらゆる液体を固体に凝結せずんばやまない。竹の葉の水気が集つて一滴の露となり、腐れた酒の蒸気が冷(つめ)たいランビキの玻璃に透明な酒精の雫を形づくる迄のそれ自身の洗練はかりそめのものではない。君のセンチメンタリズムの信条はまさしく木炭が金剛石になるまでの永い永い時の長さを、一瞬の間に縮める、この凝念の強さであらう。摩訶不思議なる此の真言の秘密はただ詩人のみが知る。

 月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知つて吠える。天を仰ぎ、真実に地面(ぢべた)に生きてゐるものは悲しい。

 ぴようぴようと吠える、何かがぴようぴようと吠える。聴いてゐてさへも身の痺れるやうな寂しい遣瀬ない声、その声が今夜も向うの竹林を透してきこえる。降り注ぐものは新鮮な竹の葉に雪のごとく結晶し、君を思へば蒼白い月天がいつもその上にかかる。

 萩原君。
 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて来た二つの相似た霊魂の為めに祝福し、更に甚深な肉親の交歓に酔ふ。
 又更に君と室生君との芸術上の熱愛を思ふと涙が流れる。君の歓びは室生君の歓びである。さうして又私の歓びである。
 この機会を利用して、私は更に君に讃嘆の辞を贈る。

  大正六年一月十日
       葛飾の紫烟草舎にて
            北原白秋

     


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